ギル菊

光の世界  の続きです。 
 
 
 
 
 続・光の世界  今後ともよろしく編
 
 
 一つの街に留まることはあまりないのだが、海の近くという事と、気候が穏やかな事、そして街中に出だしの楽団が沢山居ることを菊が非常に気に入った為、もう数週間も1箇所に留まっていた。
 ギルベルトは運良く給料の良い通訳の仕事が入り、生活も潤っていた。けれども仕事が忙しい為に、長い時間菊を一人にしている時間が多かった。その事を考えギルベルトが犬を拾ってくるのはこの直ぐの話であるのだが、兎に角今は昔のように彼女を一人にしている事が多い。
 その罪滅ぼし、とは勿論口には出さないが、とある夜早めに仕事を終えたギルベルトは、菊と共にレストランに向かっていた。非常に美味しいと同僚が言っていたのを聞いていたものだから、美食家の菊を連れて行こうと内心思っていた。
 しかし菊といえば箸と細かな日本食ならば上手く食せるけれど、基本的に大きいままの肉など食べると口の周りがベタベタになる。そんな訳で外で食べる場合は細かく切って貰うか、個室を頼むため、それなりに金がかかる。
 嬉しそうにニコニコしながらギルベルトと腕を絡ませた菊の足下を気にしながら歩いていると、不意に目の前の人に声を掛けられ、足と止める。
「あれ?今日は早く帰られたと思ったら、デートですか?」
 目の前には、飲みの帰りなのか、異様にニヨニヨしている同僚が数人居て、思わずギルベルトは顔を顰めた。兎に角早くこいつらの前から去りたかった。
「巫山戯んじゃねぇよ、縁起悪ぃな。」
 焦るギルベルトを余所に、同僚はやはりニヨニヨしている。取り敢えずさっさとこの場から去ろうとするのだが、追いかけてきた声に、ギルベルト思わず去りかけた歩を止める。
「これから一緒に飲みに行きませんか?ビールがすっごくおいしいお店があるんです。」
 昔からのギルベルトの好物といえば、庶民派のビールであった。最近は早く帰るためずっとビールを切っていたので、あの薫りとのどごしを思い出し、知らず唾を飲んだ。
「……いいですよ?」
 唾を飲み込むギルベルトに、いつもどおりフワフワ笑っていた菊が、ギルベルトを見上げて小さく頷いてくれる。しかしながらビールが置いてある飲み屋といえば、彼女を連れて行けるほど環境が言い訳無い。
 ギルベルトの中で、菊とビールが乗った秤がグラグラと揺れた。……ずっと自分が横にいればよくね?という結論に達し、ギルベルトは菊の腰をとり歩き出した。道のりは脇に入り、足下が汚い事が気になりギルベルトは菊の足下をより気にして歩く。
 喧噪に驚いているのか、ギルベルトの服にしがみつく菊は更に体を寄せた。夜独特の喧噪は、ギルベルトを懐かしさ故にわくわくさせる。店は思った通りに小さな店で、あまり綺麗とはいえないし、店内に居る人間も善良な市民とは言い難い。
「俺から離れんじゃねぇぞ。」
 小綺麗な格好をしている為目を付けられる可能性がある。分かっているのか分かっていないのか、相変わらず菊はふわふわと微笑んでいるだけだ。
 一番奥の席に菊を座らせると、小さい彼女を更に目立たせない様にする。同僚の中には女も居るから、そうそう注目を浴びないだろうと思っていたのにも関わらず、ギルベルトが連れていたことに興味を抱いたのか、席に着くよりも前に質問浴びになり菊はオロオロとしている。
「お前酒飲めねぇだろ。なんか腹溜まるもん食っとけ。」
 数々の質問を遮り、菊を庇うように身を乗り出すと、メニューに載っている御飯物を伝えていく。と、彼女がパッと顔を輝かせた品を、自分達人数分のビールと共に頼む。
 
「結局、菊さんはギルベルトさんの何なんですか?」
 アンコールが回ってきて良い気分になっている所にそう声をかけられ、ギルベルトは眉間に皺を寄せ、立ち上がった。菊は相変わらずオロオロし、口元にケチャップをつけたまま不安そうな表情を浮かべる。
「あのなぁ、コイツのこと詮索したってなんも出てこねぇよ。」
 オロオロしていた菊の頭を軽く2,3度叩くと、胸を張って仁王立ちする。そのあまりの偉そうな態度に、みんなが唖然として彼を見上げた。
「こんなガキみてぇな女……俺はもっと凹凸がある女が良いぜ。仕方なく一緒に居るだけだからな。」
 すっかり出来上がったギルベルトがけせせせせ、と高笑いをする中、苦笑いする同僚に肘で突かれ隣に視線をやると、菊は今まで観たこと無いほどポコポコと頬を膨らませていた。
 ギルベルトからしたら、他の視線を遮断させるつもりで言ったし、まさか菊が怒るとは思っていなかった。いつも戯れに怒ったりするけれど、本気で怒った姿を一度もみてかとなかったから、後で弁解でもすればいっか!と軽い心地だったのだ。
「あー、菊チャン、口元にケチャップ付いてるぞ。」
 袖で拭ってやろうとするギルベルトよりも早く、綺麗な服だというのに己の袖で菊がゴシゴシと拭った。お陰で白いドレスの裾にハッキリと赤い色がついてしまっている。
「……帰ります。」
 ポコポコしながら立ち上がった菊に、ギルベルトが慌ててその腕を取ろうとするとパチンとはね除けられた。
「一人で大丈夫です」
「いやいやいや、無理だろ」
 杖を持つ手の上から手を重ねて、宥めるように言うけれど、胡乱そうな目で睨まれる。「帰ります」の一点張りにギルベルトは仕方なしに己の鞄を掴むと杖と手探りで歩く彼女の直ぐ後ろに付く。
 時折強面の人にぶつかり、ぺこぺこと頭を下げる菊を見やりながら、有無を言わせない様子で後ろから強面の男をギルベルトが睨み付ける。店を出るまで何度もそうして沢山人にぶつかるが、グルグルと威嚇する獣みたいに睨んでいるギルベルトに何も言わない。
 外に出ると外気はひんやりとしていて、空はチラホラ星が見える。しかし裏路地、客引きの女やジャンキーらしい男が地べたに寝っ転がっている。ジャンキーにぶつかったりしないかと、ハラハラしていると、客引きの女が絡んできて鬱陶しそうに腕を振る。
 やがて無事に裏路地を抜けると、大通りに出る。車はもうまばらで、人もそれほど居ないけれど、菊はとってある宿屋とは逆へと歩き出す。今度は車道にハラハラしながら、少し後ろを付いて歩いていく。
 暫くそのまま距離を取って歩いていたが、終に深い溜息を吐き出し、やっと足を止めた。
「なぁ、菊、そんな怒んなよ。」
 数歩前を歩く菊にそう声を掛けると、数歩前を歩いていた菊は、その覚束ない足を止めた。目が見えなくとも必ず会話をする相手を見る筈の菊は、立ち止まりながらもギルベルトへ視線をやらない。
「……怒ってなんて、居ません。私、恥ずかしいんです。」
 ポツリと漏らされた言葉は、あまりにも寂しげで、ギルベルトは何も返せずにその後ろ姿を見つめていた。
「私……勝手にあなたに好かれているなどと思い込んでいて……あなたは私の目のことを気になさっていらっしゃるだけでしたのに。」
 項垂れる小さな背中を見やり、ギルベルトは己の言葉を辿った。どう言葉を返すべきなのか分からず、頬を掻きながら言葉を探る。
「あのなぁ、別にそんな事言ったつもりはねぇし……」
 どうやれば彼女の理解を得て、尚恥ずかしい事を言わないで済むのかを思案しながら、懸命に話しをするのだが、自分自身でも辿々しいと思う。菊はギルベルトに背中を向けたまま、振り返ってはくれない。
 何だか馬鹿らしくなり、大股で菊に近寄ると腕をとって振り替えさせる。と、その瞬間ギョッとして固まる。菊の真っ黒な両目からはポロポロと涙が零れているから。
「ご、ごめんなさい。私、あなたの人生を、狂わせてしまったのですね。」
 しゃくりを上げて、中々続かない言葉を懸命に紡いでいる。無意識にその頬を包み込むと、彼女は目を少しばかり細める。けれど涙は絶えず流れ、止まりそうにはない。
「……どうやってでも、償います。私じゃ無理かもしれませんが、でも……」
「何言ってんだよ、お前……」
 涙がポロポロこぼれ落ちる菊の頬を包み込み、ギルベルトは眉間に皺を寄せた。子供のように泣きじゃくる菊をみやっていると、胸の奥が痛む。
「……私の目は、勝手に車道に飛び出したからです。あなたが責任を感じて私の傍に居るなら、嫌です。
 私、もうあなたの邪魔にはなりたくありません。だから……どうぞ、どこへでもやってください。」
 きゅう、と目を瞑るその様子は、やはり子供っぽいけれど、今はそれを笑うほどの余裕も無い。頬を包み込んだまま固まった後、いつもそうするように、腕の中で抱き上げる。驚き菊は短い悲鳴を上げ、ギルベルトの首に抱き付く。
「あ、あ、あの、どこへ?」
 恐る恐るそう尋ねる菊に、ギルベルトは「家」と一言返すと、そのままズカズカと菊を抱き上げたまま大股に帰路につく。
 片手で扉を開けると、決して豪勢ではない二人で寝るには些か小さなベッドに菊を放る。ボスンと落っこちて、ベッドの上に戸惑ったまま座り込んだ菊は、眉根をおろしてオロオロとしていた。
 ギシリ、とベッドが悲鳴を上げる。彼が身を乗り出して自身の顔を覗き込んでいるのが気配で解り、菊はどうしていいのか、取り敢えずソッと瞼を伏せた。あの真っ赤な目で見つめられているのかと思うと、こめかみにじっとりと汗をかき始めてしまう。そんな間が数秒続き、怒鳴るにしろ何にしろ、取り敢えず早くして欲しいと、固く目を瞑る。
 暫く待った後、何やら小さな物を手の内に収められた。冷たく小さな、よく分からない金属らしき物。解らずに首を傾げる菊に、それでもギルベルトは何も言ってくれないから、指先でそれが何であるのか探る。
「なんですか、これ……?」
 何か丸く、輪っか状になっている。真ん中に両親指を差し込みギュウウウ、と引っ張ると、「や、やめろ!」とギルベルトが慌てて菊の肩を掴んだ。
「高かったんだぞ、コレ。」
 そう言うギルベルトに、菊は首を傾げながらも促すように頷く。しかしギルベルトは何と返して良いのか解らないのか、暫くまごついた後、菊の左手を掴んだ。
「は、はははは、お前指輪も知らねーのかよ。」
「し、知ってます!けど……」
 スルスルと左手の薬指に冷たい感触が通っていく。手を握った母の左手は、指輪の感触でひんやりとしていたのを思い出す。
 指をさすると、スッポリと綺麗に指輪がはまったのだとわかる。
「えっと……指輪だって事は解りましたが……下さるの?」
 菊には見えないけれど、ギルベルトは菊の言葉に眉間に皺をよせ、懸命に腹の中で言葉を探す。
「つ、つまりだな。け、け、け……」
「け……?」
「いや、何でもない。寝る。」
 え、と不審そうな声を上げる菊を無視して、彼女の膝の上に頭を乗せると、腰を引き寄せて居心地を確かめる。名前を呼びながらポスポスと頭を叩かれるが、それを無視して目を閉じた。
「明日こそ飯食いに行くか。」
 腕を伸ばして覗き込む彼女の頬をさわさわと撫でる。菊は目を細めるけれど、それでもどこか寂しそうな、悲しそうな色が瞳に宿っている。指先で頬からそのまま唇をなぞった。
「んな顔すんなよ。今日のは、なんか勢いで言っちまっただけだ。俺はお前が良い。」
 頭の下にある白い太ももを撫でると、ビクリと彼女が驚きで震えた。ギルベルトさん、と咎める調子で名前を呼ばれるが、ソレを無視して感触を楽しむように撫でていく。
 怒っている少々赤い顔の真ん中、少々低い鼻を突くと、パチンと音を立てて聞くの手の平がギルベルトの顔面をヒットする。いてぇ、と声を上げながらも菊の指先を掴み、キスを一杯落とす。
「菊、なぁ……俺様と結婚しろよ。ま、届け出もできねーし、事実婚になっけどな。」
 ケセセセセ、と笑うギルベルトに、菊は目を細めて首を傾げた。一度諦めたのを、思い切って言ったのにも関わらず返事が無いのを不満に思ってギルベルトが唇を尖らせ、手の平を除け、体を持ち上げ真っ正面から見やった。
「返事は!?」
 ガバリと肩を掴まれた菊は、ポカンとした表情のままギルベルトを見つめ返す。
「いえ、だって、その……」とまごつく菊に「嫌なのか?!」と責めると、フルフルと慌てて彼女は首を振った。あまりに必死に首をふるものだから、取れてしまうのではないかと怖くなる。
「ギルベルトさん、酔っていらっしゃいますから。」
 よしよしと頭を撫でられギルベルトは更に頭に血が上っていく。よしよし、と撫でている菊の手を取り、肩をいからせる。
「お前なぁ、酔ってるだけで結婚するしないを決めるわけねぇだろ」
 そう言うギルベルトの顔を、訝しそうな様子で菊は見やりながら「そうでしょうか」と、蚊の羽音の様な声で呟く。真っ黒な瞳に見られ、ギルベルトは更に赤い眼を怒らせた。
 頬を包まれて顔を寄せても、困った様子で菊は固まっている。そこでカプリと鼻を噛まれ、ようやっと慌てた様子で菊の除けようとする腕が伸び、剥がそうとした。が、当然菊の力では引き剥がす事は出来ない。
「噛まないでくださいっ」
 避ける菊の指に指を絡ませると、ギルベルトの左手の薬指に冷たい感触を感じたのか、菊はふと目を大きくさせた。
「……本当ですか?」
「あ?」
「本当に結婚してくださるの?」
 大きな、純粋という言葉で作られたような目でジッと見やると、己の怯んだ顔が見え、少しばかりギルベルトは身をひく。そのかわり、菊が起き上がりグイとギルベルトに寄った。
「そうしたら、私の事を妻だと紹介してくださる?……それともやはり、私では恥ずかしい?」
 笑って誤魔化そうとするギルベルトと対照的に、菊があまりにも必死で見やってくるために今度は誤魔化しが出来ずに口を噤む。黙り込んだギルベルトに、菊は悲しそうな様子で首を傾げた。
「じゃ、じゃぁ、お前も俺のこと夫だって、いえよ。ほいほいその辺の男に愛想を振りまくなよ!」
「はい、もちろんです」
 菊は嬉しそうに、ギルベルトにふんわりと、周りに華などが飛び交ってそうな微笑みを向ける。
 その笑みを見やると、どうにも胸の奥がギュッと迫られた心地を覚え、ニコニコしながら首を傾げる菊をキュウと抱きしめる。驚いた声を上げるけれど、そのまま無視をして抱き寄せる腕に力を入れた。
「もうすぐ、次の街に行こう。教会があったら、結婚式でもあげるか。」
 菊の肩に顎を乗せて話す気配に、彼女は笑ってギルベルトの背中に腕を回して頷いた。まだまだ物語は序盤である。